パンサータンク
発売時期 発売時価格
1961/12 ¥360



何事も節目は大切です。2000年の絶版キット研究スタートはこのキットしかないでしょう。伝説としてはあまりにも有名になったパンサータンクです。

木製キットメーカーからプラスチックモデルメーカーに転身を図った第一作「大和」が惨敗し、まさに後が無い状況での起死回生大ヒット作になりました。このキットが無ければ今のタミヤはどうなっていたのでしょう?当時、他社で既に発売になっていた戦車キットとしては、実質上初めてまともに「走る」キットとして大歓迎されたニチモのパットンなどごく少数で、確実に「動く」ことを大前提に企画されたこのパンサータンクは口コミで評判が野火のように広がったと聞きます。偶然ですがギア比の設定が他社よりわずかに速めに設定されていたこともあり、当時の戦車競技会では参加車輌の90%がこのパンサータンクのこともあったとタミヤニュースVol.11(1968/09)に記述があります。ところで「田宮模型の仕事」で俊作社長が小松崎画伯にボックスアートを頼むくだりがあり、小松崎画伯の第1号ボックスアートがこのパンサータンクと思っている方も多いと思いますが、実際は第1号は木製キット「大鳳」で次に「ぶらじる丸」、「スカイワゴン」と続き、4作目がこのパンサータンクです。原画サイズは縦352mm、横354mmとほ ぼ正方形でボックスサイドにまで絵が広がります。

箱を開けると厚紙のタグに誇らしげに「完全スケールモデルですから立派な卓上置物にもなります」といった記述があることからも、試行錯誤ながらも強力なプライドがあったことが伺えます。しかし当時はパットンやシャーマンが人気で、パンサーはおろかタイガーさえまともに認識されていなかった時代にこの戦車をわからせるのは大変で、その補足としてインストの前文に詳細な説明があり、子供達は「強力な火力と装甲を持ってシャーマンを威圧」「第二次大戦における最も優秀な中型戦車」の文章に胸を躍らせました。思えば第一作からこの様に詳細なキット解説があったことも、その後のこのシリーズの大成功につながっていったのではないでしょうか。

このキットの歴史的意味を考えれば、「ここが実際とは違う」、「この長さがおかしい」といった類の議論はナンセンスなのはわかってもらえると思います。このキットのどこにもスケール表記が無いのですが、1/35スケール戦車シリーズNo.1であることはもちろん事実です。そのあたりについてはスコーピオンの項目を参照して下さい。ところで車体前方上下に2つずつある丸い膨らみは、ギアが干渉しない様に裏側にへこみがあるためです。かつて某漫画家がプラモデルを参考に戦争マンガを描いたときに、この膨らみまで描いてしまったのは有名な話ですね。しかしこれも当時の絶望的な資料不足や漫画家の殺人的スケジュールを考えれば、我々に興奮を与えてくれたことを感謝されこそすれ、なんら揶揄されるものではないでしょう。

歴史的なキットだけに、既にいくつかの雑誌でボックスアート等は公開されていますが、ここでは点滅装置について触れてみましょう。このキットは軽快に走るだけではなく、砲身先端につけた赤色豆ランプを点滅させて走るのです。今でこそリレー回路等も安価で手に入りますが当時の原理はこれまた子供にもわかりやすいものでした。インストの車体下部イラストをご覧下さい。ギアボックスから出るシャフトに円筒状の物がついており、さらにそこから2本の突起物があるのがわかると思います。この2つの突起物がその下にバネ状に付けられた点滅板に回転と共にカチャカチャ接触し点滅装置(ギアボックス自体に電流が流れる!)となるのです。回路図を見ると、電源は動力部のON、OFFとは無関係に常に1.5Vが通電されているため、戦車の止まり所が悪ければ赤いランプが点滅せず、ついたままだったのでしょうか?どなたか原体験のある諸先輩方教えて下さい。

このキットの成形色はダークグリーンが標準と考えられますが、当研究室にある完成品のパンサータンクはジャーマン(フィールド)グレーの成形色です。これも「ジャーマングレーバージョン」と銘打たれたわけではなく「当時の材料の入荷状況で(俊作氏談)」色が変わった事もあったようです。余談ですが昨年末に出版された「ちびっこ広告図案帳/オークラ出版」という1965〜1969年の少年雑誌広告をまとめた素晴らしい本に、No.23(MT223)のパンサーの広告について「広告では緑色に見えたのに実際はダークイエローでがっかり」という筆者の体験が書いてあります。これについて筆者は「当時発売されたばかりのタンクカラースプレーのオリーブドラブを吹いて広告写真にしたのでは」という仮説を立てていらっしゃいます。これをタミヤに確認したところ「まあそんなところでしょうか」と言われたそうですが、当研究室助手も仮説を立てさせていただくと、「テストショットの成形色が単にオリーブドラブだった」と考えます。これについては後日画像を交えて考察しましょう。あるいはNo.23のパンサーについて「ボクは成形色オリーブドラブのパンサーを作った( 持っている)」という方は是非教えて下さいお願いします。

ところで小松崎茂画伯によるこの歴史的原画は静岡のタミヤ本社の金庫に厳重に保存されておりますが、1999年春に東京池袋サンシャインで行われた小松崎茂展に特別出品されました。一説にはこの絵が静岡本社を出たのは初めてのことだったそうですが、一般公開に先駆けて行われた前日のプレス公開で写真撮影の許可を頂きデジカメで撮らせていただきました。思えばこの日は平野克己氏とご一緒させていただいたのですが、パーティーでお隣に座った方がなんと高荷義之画伯、その隣が大西将美画伯、中西立太画伯といった具合で、もちろん皆さんには初対面で緊張のあまり卒倒しそうになりました。そして目の前で平野氏が「初めまして。先生、実は高荷先生のパッケージ画集出版を考えているのですが...」と高荷画伯ご本人に恐る恐る相談したら、意外にもその場で快諾され、その後トントン拍子(でもなく、驚異的な平野氏の編集能力)で先日の画集発表となったのでした。今から思えばその歴史的瞬間(?)に偶然立ち会わせていただいた縁で、畏れ多くもその画集の末筆を汚させて いただくことになったわけです。

話を戻しましょう。このキットが世に出て大ヒットとなったまさにその時、半年遅れでリモコンキットも発売になりました。実はこのリモコンキットは日本のプラモデル史上、初のリモコン戦車となったのですが、これまた新しいジャンルとして子供達に絶賛され爆発的に売れました。その後1/35戦車シリーズとしてラインナップが増える中で、スケールモデル性を考えると釣り合いがとれなくなり、シングル、リモコンとも1965年に製造停止となってしまいました。こう考えてみると発売になった期間はわずか4年足らずで、これを現代に置き換えてみると例えばMMシリーズNo.200のヴェスペの発売から間もなく丸4年(2000/01現在)という事実から、いかに短かったかがわかると思います。同業他社の中にはまだこのレベルに達した物も作れなかったメーカーがあったにもかかわらず、あっさり製造停止にするところにスケールモデルにかけるタミヤの本気が伝わってきます。翌年1966年にアバディーン戦車博物館へ行き綿密な取材をし、世界があっと驚いた1/25パンサーの登場が1967年2月。そしてファンの期待を裏切らず 完全新金型1/35パンサーの決定版(MT223)が登場したのは1968年10月のことでした。


内箱に付いた補強タグ。「立派な卓上置物」 砲塔はもちろん一発成形。
手前の2つの丸い突起に注目。 No.23パンサーとの比較。ややずんぐり。
複合転輪は再現されなかった。 ゴムキャタピラのクローズアップ。
これが赤の豆電球。ソケットもなくハンダ直結。 素組無塗装完成品。かつての当研究室の表紙。

当時の小学生がこの文章を読んで想像を逞しくしていた様を思い浮かべて下さい。
配線に注目。また車体下部の様々な突起から、既にリモコンが視野に入っていたことがうかがわれます。

砲身にランプは15年後の1/16ラジコンゲパルドで再現。
至宝。パンサータンクの原画。