小松崎 茂

こまつざき しげる(1915/02/14〜2001/12/07)


主な作品 旧ロゴ1/35戦車のほとんど作品。(別項目の高荷氏、平野氏の作品を除くすべて)
旧ロゴ1/50、1/72日本機シリーズのすべて等、初期タミヤの大半。


改めて言うまでもなく、この方無くして現在のタミヤは存在しない。社長田宮俊作氏をして、「会社の恩人」と言い切る先生である。

俊作氏の著書『田宮模型の仕事』の中で、社長が人気絶頂の小松崎氏に会社の窮状を訴え、無理を承知でアポ無しの手紙で箱絵を依頼したところ、「田宮さん、私があなたの会社を救ってあげましょう」との電話を頂くとの記述があるが、先生によれば「そんな事はあり得ない、私がいくら馬鹿でも、そんな思い上がった発言をする訳がない」と謙遜される。俊作社長が感動の余り、つい筆が走ったというのが真相の様だが、社長にとってはまさにそんな感激だったことは想像に難くない。

1961年6月発売の木製キット「大鳳」が、先生がタミヤに描いた初作品。そして初のプラモデルボックスアートが1961年12月発売の「パンサータンク」となる。「リンドバーグ(リにアクセントがある)のな、ヘタな絵一枚しか資料が無くてなあ、苦労したよ」と、甲高い声でおっしゃる先生の記憶力は驚異的である。その後はさらに大胆な構図、荒々しいタッチ、斬新な色使いで圧倒的な迫力を続け、1967年発売のリモコン1/25ロンメルは神々しい程の完成度を持つ。1969年発売の1/25リモコンT34ではリアリスティックな画風で一つの金字塔をうち立てた。

時代の変遷の中で、1972年発売の1/700ウォーターラインシリーズ駆逐艦をもってタミヤと小松崎パッケージの関係は消滅したが、(意外にも、もう30年近く立つことに驚く方も多いだろう)少なくともその後10年以上、タミヤは新製品が出る度に柏の先生の自宅にすべてのキットを送り続けた。契約だけではなく「人」を大切にする...そんな心意気が現在もタミヤが多くのファンをつかんでいる証だろう。
上記の拙文を書いたのは1999年5月のことでしたが、2001年12月、小松崎先生は鬼籍に入られました。謹んで先生のご冥福をお祈りいたします。