福島第一原子力発電所 1号機原子炉建屋
(1/144スケールカットモデル)

全くの手探りで、この原発模型を実質10日間で製作しました


間もなく東日本大震災から3年が経とうとしています。それは取りも直さず福島第一原発の大事故からも3年になります。
改めて被災された方々、そして過去も現在も未来も原子力災害と直接対峙しなければならない多くの方々に深くお見舞い申し上げます。

しかし、取材をすればするほど本当に何とお声をかけていいのか正直現在も見当たりません。当研究室助手の本業はマスコミの端くれですが、この原子力災害をきっかけに(本当に些細な事ですが)私個人の仕事の担当内容が大きく変わり、現在も原子力に特化したセクションを担当しています。それぞれの立場で思いを続け行動する。それしか無いと思っています。


ここに紹介する「福島第一原子力発電所1号機原子炉建屋模型」は、震災からおよそ2ヶ月経った2011年5月13日(土)に完成し、静岡ホビーショー合同展「ろうがんず」ブースで初披露されました。

この当時は“最悪の事態”は現場作業員の方々の驚異的な努力でなんとか免れたものの、15万人を超える福島の方々が避難し、超高濃度の放射性汚染水の海洋漏れを始めとして汚染水問題が大きく取り上げられ始めた時期でした。

「こんなものを作っていいのか?」「被災者の気持ちを考えたことがあるのか?」という自問自答は、それこそ何度も何度も何度もしました。
当然、厳しい「批判」を覚悟しましたが、それを上回る強い思いがあったからこそ実行に移しました。

それは「現場で必死に事故の拡大を食い止めてくださっている作業員の方々の環境を正確に伝えたい」の1点です

テレビ、新聞、雑誌で連日連夜、この事故は取り上げていますが、原子炉建屋の正確な図面は一切出ていませんでした。各社ともポンチ絵の様な略図で説明です。大きな原発模型を作ったテレビ局もありましたが、あくまでも概念模型で、正確さに関しては大きな疑問がつくものばかりでした。それには理由がありました。

「正確な図面は核物質防護上、一切表に出ない」という現実があったのです。建物の高さこそ公表されていますが、扉がどこにどんな大きさで、配管がどこに通っていてを始めとして、詳細が全く公表されていなかったのです。いわゆるテロ対策です。そのため各社は東京電力が出していたパンフレットなどの不正確なイラストを参考にフリップや原発模型を作るしかなかったのです。当然私も東京電力に「正確な図面を公開してほしい」と改めて要望しましたが、認められませんでした。

そんな中、奇跡が起こりました。2011年4月下旬のある日、ネット上に「福島第一原発1号機原子炉建屋」の2面図が流出したのです。おそらく建設当時のもので40年ほど前の物ですが、これまでの物とは全く次元が違います。これを東京電力社員ではない複数の原子力関係者に紹介すると、いずれも「本物の1号機の図面ですね」と確認が取れました。

そこにゴールデンウィークです。事故直後からは休日返上で、自宅にはただ寝るだけに帰っていた状態で、ゴールデンウィークも当然その覚悟だったにも関わらず、上司から「あなたは管理職なので強制的に5連休を取りなさい」と通告を受けました。上司の優しさかもしれませんが、自宅にいても悶々とするばかりです。そこにこの図面の流出です。答えはすぐに決まりました。


例によって製作のマニュアルは一切ありません。試行錯誤の連続です。睡眠時間を削るだけ削って、実質10日ほどで完成させましたが、完徹に近い状況で5月14日(土)の早朝に静岡の会場に持込み、ブースに展示の準備をしていたら、見知らぬ人から開口一番背中越しに言われました。

「大胆な悪趣味ですね」


覚悟はしていましたが、一切の説明をする機会が事前に無いとこうなるのです。これまでの努力を全否定された気になり憂鬱な気分になりましたが、「ちゃんと説明すればわかってもらえる」の思いを持ち続けました。床の厚さ、壁の厚さまでミリ単位で一切の妥協無く正確に再現する。そしてその上で初めて出来る一番のこだわりは「同スケールの作業員のフィギュアを配置する」事だったのです。

「!!!!・・・原発って、こんなに大きいの!?」「こんな環境で決死隊の方々が入ったの!?」

初日の展示でようやく本意が伝わり始めた頃に会社から「その原発模型を明日の昼の番組で使ってスタジオ解説して欲しい」と連絡がありました。結局、土日の2日間開催の静岡ホビーショーでは初日のみの展示になり、翌日は東京に持ち帰り、テレビ出演となりました。

反響は自分の想像をはるかに上回るものになりました。
「同じ大きさで作業員の人形があり、わかりやすい!」「初めて原発の大きさがわかり作業員の方々の苦労がわかりました!」
ようやく苦労のほんの一部が報われたという思いもかすめますが、被災なさっている方々のことを思えば、何一つ晴れやかなことはありません。


実は全くの偶然ですが、当研究室助手は職場で2010年10月に半期ごとの就業キャリアプランを提出したのですが、通常業務とは別に独自に「原発問題」について勉強と取材を進めたいという内容でした。それは自分を筆頭にこの分野を継続的に取材し続けている人物が社内に見当たらないという危機感からに他なりません。年が明けて2011年1月から本格的に原発の勉強を始め、内幸町の東京電力本社にも何回か足を運びました。そして2011年3月2日、3日で柏崎刈羽原発の現地取材を行い、停止中の4号機格納容器の中にも入りました。4日は敦賀の「もんじゅ」、そして3月10日の夜には青森に入り、11日は六ケ所村の核燃料サイクルシステムの敷地内を取材しました。いずれもそのままオンエアに結びつかないということで休日扱いの私費取材になりましたが全く意に介しませんでした。11日は午後になって6500体の核燃料集合体が貯蔵されている巨大プールを視察して建屋の外に出て、広い敷地内を走るマイクロバスに乗った途端に軽いめまいを覚えました。「おかしい?何か揺れてませんか?あ、建物から大勢の人が出て来ますよ!」それが東日本大震災でした。なんと六ケ所村の核燃料サイクル施設の敷地内で大震災に遭遇したのです。あと5分ずれていたら6500体の核燃料の目の前で被災したことになります。

何の虫の知らせで、神様が私に何を求めているのか未だに全くわかりません。予約してあった青森新幹線「はやぶさ」や、取り直した航空券は全て使い物にならず、翌日午後に出た臨時航空便のキャンセル待ちの160番台だったにも関わらずなんとか帰京できました。その後は全てが原発報道一色になりました。社内報道局で臨時に組織された原発班のメンバーになったのは当然の流れで、結果的にこの時から継続して今も原発問題を専門に担当している数少ない一人が私ということになりました。



この原発模型の製作日記の公開も色々逡巡しているうちに3年が経とうとしています。
一旦落ち着いているようにみえる福島第一原発問題も、長期的に見れば全く予断を許しません。
ともすれば日々の暮らしで福島の被災状況が忘れがちになりかねない昨今、静かな思いで順次公開させていただきます。

(2014/01/13)


地下1階、地上5階建てですが、天井の高さが全く違います。 無機質な壁面は何度か模様替えが行われました。
2011年5月15日(日)、原発模型初のスタジオ披露です。
当時、原子炉を冷却するために毎日192トンもの水が注入されました。
2011年12月には、圧力容器を貫通した溶けた燃料が格納容器のギリギリまで達しているという
演算結果が出され、急遽カットモデルにして紹介しました。

日付 内容 本番まで 更新
2011/05/01 製作開始 あと13日
2011/05/02 圧力抑制室の製作 あと12日
2011/05/03 格納容器の製作 あと11日
2011/05/04 圧力容器の製作 あと10日
2011/05/05 各階フロアーの製作 あと9日
2011/05/07 5階オペレーティングフロア壁面の製作 あと7日
2011/05/08 床と壁の塗装 あと6日
2011/05/09 マスキングと床の再塗装 あと5日
2011/05/10 配管等の製作 あと4日
2011/05/13 最後の追い込み あと1日
2011/05/14 静岡ホビーショー合同作品展に展示 当日
2011/05/15 TVスタジオ出演 翌日
2011/12/01 度重なるアップデート