平野 光一


ひらの こういち(1937/01/07生まれ)



主な作品 1/21ビッグショット
1/21M2GUN(初版
1/35ツインフラック
1/35M41(リモコン新ロゴ)
1/35M42(リモコン新ロゴ)
1/48M60A1シャイアン
スターライン
ワールドタンクシリーズ
・M42ハンター(リモコン旧ロゴ)
・M42ハンター(シングル新ロゴ)
T92デストロイヤー(リモコン旧ロゴ)
・T92デストロイヤー(シングル旧ロゴ)
・T92デストロイヤー(シングル新ロゴ)
・クルセーダー(リモコン旧ロゴ)
・クルセーダー(シングル旧ロゴ)
ホーク版ポケットミュージアムシリーズ
T92デストロイヤー
クルセーダー
バンダイ1/32プーマ
ハセガワM41
ハセガワM42
ニットーバトル
ニットービクトリー
ニットーM4トラクター(初版)
ニットーM8トラクター(初版)
ニットーアリゲーター(初版)
ニットーM29ウィーゼル
ニットーsdkfz251



まさに芸術家、そして「幻の画家」と言われるのが平野光一画伯です。

自らを「小松崎先生の外弟子」と呼ぶ平野画伯は、16歳で小松崎先生の所へ通い、19歳の若さで光文社「少年」の口絵でデビューしました。その独特の画風からもうかがえるように徹底的に資料にこだわります。メカを描くのを得意となさる画伯ですが、やはり何と言っても戦車が秀逸です。タミヤでのデビューは24歳の時でワールドタンクシリーズのT92デストロイヤー(シングル旧ロゴ)です。実は後にHAWKもこのボックスアートを使うのですが本人は全く知らなかったそうです。

興味深いエピソードを聞きました。平野画伯は当時輸入され始めたプラスチックモデルを組むのが大好きで、良く天賞堂と新橋ステーションホビーに通いました。絵を描くための資料が枯渇していた当時、写真一枚でさえ貴重な中、出来の良いスケールキットというのは大変な資料になったそうです。そこで購入したのがアメリカITC社1/24スケールのT92戦車のプラスチックモデルとなるのですが、それを机の上に色々と配置しながら、斜め下から見上げるようにして構図を決めたのがタミヤT92デストロイヤーリモコンのボックスアートです。この時期、平野画伯のアトリエに田宮俊作氏が訪ねて来てこのITCのキットをご覧になって、いたく気に入ったようで「これちょっと頂いていってもいいかな?」と静岡に持って行かれたそうです。外国製のキットを参考にするというのは当時良くあったことですが、しばらくしてから1/50ポケットミュージアムシリーズのT92がHAWK社を通じて発売になりました(詳細はこちら)。「僕のITCのキットが新しい金型のT92を俊作さんに製品化さ せる大きなきっかけになったと思うよ」とは平野画伯の弁。ついでにMTシリーズキットNo.10の勇み足問題も絡んできそうですが、この話はまた別の機会に...

平野画伯の画風は時代と共にかなり変わっていきます。ご本人には何の了承も得ていませんが、当研究室助手が一ファンとして見ると、大きく分けて3期に分類できると考えられます。

第1期 〜1963 記録写真風写実主義
第2期 1963〜1967 小松崎茂風絵画調
第3期 1967〜 細密平野オリジナル

第1期はビッグショットやクルセーダーに代表される重厚な画風です。一瞬、記録写真かと思わせる説得力もありながら、戦闘車両の持つ独特の恐怖感がよく現れています。第2期は研究者泣かせです。平野画伯自ら「小松崎先生の外弟子」とおっしゃるだけあって、画風が非常に似てきます。小松崎先生は基本的には自分の作品にサインをなさるので、それとは区別が付きそうなものですが、中には例外でサインをなさらないものもあるので判別が難しくなります。この時期の作品としてはツインフラック、リモコンT92、ニットービクトリー等があります。第3期は見事の一言です。1974年当時、同業の中西立太画伯をして「戦車を描かせたら右に出るものはいない」とホビージャパン誌上で言わしめた実力は、まさに「芸術」です。タミヤリモコンM42、M41、ニットーアリゲーター等がこれにあたります。

言い訳がましくて恐縮ですが、当研究室助手が、以前小松崎先生のタミヤボックスアートを調べた時に最後まで悩んだのがツインフラックです。どう見ても小松崎先生の画風ですがサインが無いのです。しかもペアで発売になったアーチュリーには小松崎先生のサインが入っています。丁度その頃“小松崎茂プラモデルパッケージの世界”(大日本絵画)を編集中の平野克己氏に尋ねたところ「先生も沢山描いたからあまり覚えてないとおっしゃり私も悩んだのですが、炎の表現から見ても、まず先生の作品に間違いないと考えています。」とのことでした。

しかし今年(1999年)の5月に銀座で開かれた「24人の絵士展」のレセプションに参加したところ、平野光一画伯にお会いする事が出来、「ああ、あれは僕の作品だよ。確かにあの頃は先生の作品に似ていたからねえ」と言われ驚いたわけです。実は平野画伯は業界でも"幻の画家"で通っており、「こんな会に出席するのは20年ぶりで、みんな僕の事知らないんじゃないかと思ってたけど、案外歓迎してくれたなあ」とおっしゃるように、会うだけでも至難な方だったのに、このような会に初めて参加した当研究室助手が一回で会えた上に話を伺えたのは幸運としか言い様がありません。興奮を押さえながら「あの〜M2GUNの初版を描いた方をご存知ないでしょうか?」「ああ、僕だよ。」「えっ!するとビッグショットを描かれたのは?」「ああ、あれも僕だねえ」「ええ〜っ!!するともしかして小さな箱のクルセイダーを描かれたのは?」「ああ、そうだけど...良くそんな事知ってるねえ。」「はい、あの、じゃあデストロイヤーも...」と初対面にもかかわらず延々と質問が続いたのでした。申し訳ありませんでした。

先の平野克己氏にツインフラックの事を話したところ、「う〜ん、そうでしたか、確かにひっかかっていたんですよ。でも困ったなあ、小松崎先生の本に誤って先生の作品として載せてしまったなあ。」との事なのですが、400点以上のボックスアートをたった一人で編集なさった偉業を思えば許容範囲かとも言えますし、もちろん重版ではそのあたりも改正されると思います。このHPをご覧の皆様には一足先に申し訳ありませんでしたとの事でした。

平野画伯の最高傑作の一つは1971年に発売されたM42ダスターだと思うのですが、「気に入った資料が無くてねえ、あれは(大幅に遅れて)頼まれてから1年以上かかったかなあ、それっきりタミヤから仕事が来なくなっちゃったよ」となれば、その実力を惜しまれながらもこのM42がタミヤ最後の作品になってしまったのもムベなるかなといったところでしょうか。