上田 毅八郎


うえだ きはちろう(1920/08/30生まれ)



主な作品 木製キット「鳥海」「愛宕」
ミサイルタワー
1/400重巡洋艦シリーズの6種類すべて
1/700ウォーターラインシリーズの一部駆逐艦を除くすべて
ハセガワ1/72、LS、グンゼレベルなど航空機も多数。


こよなく海を愛する上田毅八郎画伯に、船を描かせたら右に出る人はいません。この方についての紹介記事は上田先生と親しくしており、自宅に伺ったこともあるという「タミヤの船ファン」さんにお願いしました。当研究室掲示板でもおなじみですよね。

以下は「タミヤの船ファン」さんの文章です。

 上田氏は大正9年8月30日に静岡県藤枝市で生まれました。子供のころから少年雑誌のグラビアを見ながら飛行機や軍艦の絵を描いていたそうです。昭和16年3月、浜松の陸軍高射砲連隊に入営、翌年から陸軍船舶砲兵(陸軍輸送船の高角砲員)になりました。因みに本当は飛行兵を志望したものの、身長が足りずなれなかったとのことです。船舶砲兵になってからも自分の船や周りの船を、軍事郵便ハガキにスケッチしていました。上官に見つかると制裁があるので、ものの数分で仕上げて、弾薬庫に隠していたそうです。描くペースが速いのはこの頃からなのですね。

 上田氏は大戦中、実に6回もの沈没を経験しています。中でも昭和19年11月、乗船していた金華丸(きんかまる)がマニラ湾で被爆・沈没した時の大怪我で、利き腕だった右腕は事実上使えなくなりました。これら戦時の経験が、田宮俊作社長をして「あの人の絵は、いつも悲壮な勇姿という解釈が施されている」(朝日新聞平成6年11月18日付け・コピーあります)といわしめる作品を生み出したのだと思います。左で右と同じように絵が描けるまで、10年かかったそうです。

 戦後は家業の塗装業を継いでいたのですが、昭和45年に経営が悪化し、絵だけで生活することになりました。もともとやんちゃで警察沙汰になったこともあったそうですが、自転車に乗って静岡から箱根を越えて東京に出て来たり、パワーがあったとも言ってました。見たいものがあるとバイクに乗って神戸に行った話は私もずいぶん聞きました。バイクで事故に遭ってからは車を運転しています。

 上田氏が模型メーカーから箱絵の発注をもらうと、まずどんな感じになるか、下絵を描いてメーカーに見せるそうです。その後、本番に取りかかるのですが、この時、2つの絵を同時に描いてしまうことが多々あります。タミヤニュース146号の6ページ下段に巡洋艦夕張のイラストがありますが、キットの箱絵と違うのにお気付きでしょうか?同じように、組合で出している「ウォーターラインガイドブック」(改訂版)の25ページには、ボツになった巡洋艦最上のイラストがありまして、何度見てもこちらの方がカッコ良いのですが、好きな人には機銃の位置がキットと違うことが一目でわかるので採用されなかったのではないかと思います。

 それから上田氏の画集は私が持っていった「世界の大帆船」「世界の軍用機」(講談社)の2つですが、他の方の作品と一緒になっているものに「第二次大戦空戦画」(徳間書房)というのがあるらしく、また「一億人の昭和史」(毎日新聞社)にもイラストがあるらしいです。いずれ確認します。

以上です。「タミヤの船ファン」さん、ありがとうございました。

ちなみに小松崎先生の方が6歳年上ですが、伝説とさえなった俊作社長が柏の小松崎先生を初めて訪ねる時点で、上田先生は既にタミヤの木製戦艦キットの箱絵を描いており、「君のところで出している木の軍艦模型の箱絵を描いている、とても巧い人がいるではないか...」と日頃感心していた上田毅八郎画伯の事を話した...と小松崎先生は振り返ってらっしゃいます。タミヤソリッド(木製)モデルの重巡「鳥海」と「愛宕」がそれです。